利権集団的になった「と学会」?


http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20060815の続きです。


 さてすでに稲葉さんのこのエントリーのコメント欄(特に、堺、田中、稲葉、KoichiYasuokaの各氏コメント)のところ、そしてわたしの旧ブログなどで、すでに松山、堺、海法各氏の緒論に依拠する問題点は指摘されてますので、その問題点を抱えたままの山本弘氏の論説を詳細にやるのも面倒なことですが、それでも私たち罪人(田中、山形、稲葉、ITOK各氏)に関するところだけご紹介。


<田中氏らはアメコミ・マニアからの正しい指摘を「解釈の相違」「論拠に乏しい」「じぶんの考えに意固地なだけの人」と一蹴する。彼らにとって、増田氏の論がもっともらしくて口当たりが良ければそれでいいらしく、アメコミに関する事実関係が間違っているのは些細なことらしいのである(繰り返すが、些細なことではなく、まったく根本的に間違っているのだが)。アメコミを読みこんできた人間より、アメコミに無知な増田氏や自分たちの考えの方が正しい、と主張するのである。
 彼らの態度は、物理学者の理論や観測された事実を退け、「相対性理論は間違っている」と主張するトンデモさんたちと、何ら変わりない。>


とありますが、山本氏が増田本が<まったく根本的に間違っているのだが>とする論拠は、堺さんらの「コミックコード陰謀論」への批判と同じだと思われます。とりあえず山本氏の論評から引用。


<略 50年代に精神科医フレデリック・ワーサムが中心となって盛り上がったコミックス・コード制定のきっかけになったという歴史を、「まったくの嘘ぱちだ」と決めつけ、実はエリートたちが朝鮮戦争での戦意高揚のために戦争コミックスを弾圧したのだ、という妄想に満ちた陰謀論を展開する>


さて、この山本氏は(堺さんほかの発言を真に受けてしまい)「50年代に精神科医フレデリック・ワーサムが中心となって盛り上がったコミックス・コード制定のきっかけになったという歴史」を事実として増田本を批判しているわけですが、それは関連する文献の誤解釈を含めた堺さん自身の「トンだトンチキ」発言として撤回されております。ここを参照ください。


さらに「実はエリートたちが朝鮮戦争での戦意高揚のために戦争コミックスを弾圧したのだ」自体は陰謀論でもなんでもなく検証されるべき一仮説にしかすぎません。もちろん私は以前書きましたがこの種の見解を支持できる証拠を発見していませんし、また増田本も明確な論拠がないためにこの仮説は現状では支持できません。もちろんこれがなぜ「陰謀説」という形容を称されるのかまったく理解に苦しみますが。


むしろ山本氏は少しは他人(堺さんの「トンだトンチキ」)を真にうけるのではなく、ご自分で勉強したらどうでしょうか? 基本的な事実と基本文献の精査を行ってから他人の本を「トンデモ」と認定するのがと学会の精神ではないんですかね? あ、違う?こりゃまた失礼w


さて山本論説はただの不勉強な「トンだトンチキ」に依拠した見込みのない論評ですので無視してかまいません。
むしろ増田本のバランスのいい論評は

1 boxman氏のもの
手前味噌ですがw 私の『週刊東洋経済』に寄稿した書評
2 これ
3 率直な稲葉さんの以下の感想(コメント欄にあるようにここを訂正しました)

<2006年05月21日

23:49 shinichiroinaba | 削除


各論や事実認識ではおかしいところはあっても、仮説の提示としては面白いと思いますが、いかんのでしょうか。細かい事実認識を正すことによってその主張がよりヴァリッドになる可能性もあると思いますが>増田本。

あの本は基本的には『高度成長は復活できる』『国家破綻はありえない』などとあわせて読まれるべき本、つまりは日本経済論であって、ポップカルチャー研究書ではありません。その辺の認識が堺さんにも海法さんにも欠けています。

ちなみに大塚英志の作業も、文芸批評であって文学研究じゃないですね。

ぼく自身はところどころナショナリスティックな口吻に疑問を感じはしますが、「女子供文化を馬鹿にするな、それこそが健全な市民社会の下部構造だ」という主張はまっとうですし、日本のサブカルチャーがそうした下部構造の役割を果たしていたという仮説も真摯に検討するに値すると思います。ただその際、比較の対象としてのアメコミやアメリカのサブカルチャーがやや矮小化される嫌いがあったかと。大塚の指摘する、「日本サブカルチャーアメリカ起源説」にも無論一理はあるでしょう。

ぼく自身はあの本を読んで、むしろ「ハリウッドは馬鹿にできない」とか、「マーヴェルやDCはともかく、ディズニーにハンナ・バーベラはすごかった」との思いを強くしましたね。 >



が参考になるかと思います。

アメコミ論戦を簡単に評すると、自称「プロ」とか「コアなファン」とかが自分のテリトリーにこだわって、視野狭隘と研究の不足を露呈したみっともない話にしかみえません。

それと山本論評がいかに増田本が読めてないかのいい例はこの論評の最後の次の一句

<アメコミを日本のマンガ、どっちが優れているか、どっちが進んでいるかなんて言えない。どちらも長い歴史があり、多くの傑作があり、大勢のファンがいる。両者の違いは、単なる文化の相違であって、優劣ではない>

お説ごもっともw 「もっともらしくて口当たりが良ければそれでいい」論のお手本まで提供していただき感謝感激w ただし増田本の感想文のまとめとしては不適格ですなあ。増田本の強烈なメッセージのひとつは、日本でもアメリカでも「文化」がその国の政策や制度のあり方でダメになったりよくなったりすることがあるよ、その重要な指標がコミックコード問題なんだよ、ということなんですよ。

そういつた重要なメッセージも読みとれないで、ただの口当たりのいい文化相対論で結ぶとは、まるで規制緩和に「文化」を振りまわして抵抗する集団と同じですね。本当にいまやと学会もただの利権集団的発想になりさがったんですなあ。

 フリードマンは“フリードマン的マネタリズム”を辞めたのか?


 昨日のエントリーで紹介しましたマンキュー氏のブログでのフリードマン書簡に端を発して、コーエン氏のブログでフリードマンの年来の主張とみなされていた、貨幣供給量を経済成長に合わせて増加させるという政策を撤回したのか、またはその代替案でインフレターゲットを採用したのか否かをめぐってコメント欄で活発な情報交換が行われています。


http://www.marginalrevolution.com/marginalrevolution/2006/08/why_i_disagree_.html


 日本でのフリードマン理解はいまだ上記の論点(これは先にいえばフリードマンの実践的側面の表れ)を吸収したものは登場してません。日本では上記フリードマンの実践的なスタンスの変更(いわゆるマネタリズム的な政策の放棄とインタゲの採用)は、すでに山形さんが『クルーグマン教授の<ニッポン>経済入門』の解説で言及していますね。
 このフリードマンの金融政策の実践的スタンスの変更ともいえる事態は、本ブログでの最大関心事のひとつであるフリードマンの「プラッキング・モデル」と政策レジーム転換との関連についての研究とともに、フリードマン理解の興味深い論点を提供するのではないかと思います。

関連

 http://www.findarticles.com/p/articles/mi_m1282/is_16_55/ai_106672804

 また後で追加予定。
 

 ポール・オースター/デビッド・マッズケリ『シティ・オブ・グラス』


シティ・オブ・グラス (Graphic fiction)

シティ・オブ・グラス (Graphic fiction)


 下に書いたスピーゲルマンつながりで再読。相変わらず面白い(評価☆☆☆☆1/2)。原書の最新版ではスピーゲルマンが序文を寄せたらしいですが。


 ポール・オースターということでこの記事を思い出しました。


<――……それに比べると脳天気な話かもしれませんが、『シティ・オブ・グラス』のコミック版なんてのが出てしまってますね。とはいっても、見たときは悪い冗談だと思いましたが、実際に読んでみると異様な出来のよさで……

「うん、驚異的だろう。あれを仕切ったのは、ナチズム風刺コミック『MAUS』をやったアート・シュピーゲルマンで、昔からの友達なんだ。最初に話を持ってこれらたときには面食らったけれど、まああいつのやることならまちがいはあるまい、ということで OK を出したんだ。どんなものが出来上がるか興味もあったし。結果はきみの言う通り」

――あのピーターが椅子にじっとすわってほとんど支離滅裂な独白にふけるあたりなんか……

「……感心させられたよね」

 『シティ・オブ・グラス』登場人物ピーターは、純粋言語を探し求める父親によって子供時代を一室に監禁されて過ごしたため、通常の会話能力を欠いている。このため、あちこちからかき集めてきたような、繰り返しの多い断片的な借り物のことばで語る。それをアーティストのデビッド・マツチェリは、ピーター自身が次々に変身を遂げる形で表現し、原作の借り物めいたせりふの雰囲気を見事に描き出していた。 >


 80年代の後半に日本でオースターの作品が翻訳されて、「三部作」から数作はでるたびに愛読していましたね。一番最後に読んだのが実はこのコミックなわけでしてそれからはかなり遠ざかってしまいましたが…。

 ところでこの『シティ・オブ・グラス』のモチーフとジョージ・スタイナーの考え方ってやはり関連するのかなあ。

 アート・スピーゲルマン『消えたタワーの影のなかで』


消えたタワーの影のなかで

消えたタワーの影のなかで


作者がテレビ出演を依頼されて、まったくテレビの編集に合わない発言で放送局をたたき出されるのが、誰かさんに似ているので笑えた。作品自体はそりゃ、一読の価値はありますともええ。(評価☆☆☆1/2)

 く、悔しい


 あ〜気がつくの遅かった。私は夏季の間は本務校ではなく、早稲田大学様の図書館で本を借り出してシコシコ勉学しているわけですが、以下の本誰かに借り出されてるじゃんか。読みた〜い。身銭切って買うかな。なんといってもフランク・ナイト破門二人組の書簡集。


Making Chicago Price Theory: Friedman-Stigler Correspondence 1945-1957 (Routledge Studies in the History of Economics)

Making Chicago Price Theory: Friedman-Stigler Correspondence 1945-1957 (Routledge Studies in the History of Economics)


妄想は果てしなく続くわけで、あのフリードマンの『価格理論』とかマーシャルの解釈とか、スティグラーの『価格理論』(これはいまでも読む価値あると思うな)との関係とかどないなんじゃ、と妄想は膨らむ。読んだ人いたら感想キボン