蒲焼の匂い:日経公社債情報―日銀批判フルスロット―


 さて最強の専門誌『日経公社債情報』の匿名記事を紹介するコーナーです。本誌含めかってないほど福井総裁ネタとゼロ金利解除関連の推測記事、特集座談会などてんこ盛りでバーニング状態ですが、やはり注目は「永田町ウォッチ」と「日銀ウォッチ」です。

「永田町ウォッチ」は管財人さんの匿名記事「日銀が作ったきな“借り”」です。

 総裁の村上Fへの出資が2月というタイミングが量的緩和解除の1ヶ月前であり、「法的には金利情報はインサイダー情報ではないが道義的責任は免れ」ない、指摘。「いずれにせよ、日銀の政策の信頼性は地に落ちている」と指摘しています。

 そしてこのスキャンダル以外でも日銀の政策そのものが問題である、として、世界同時株安の中でも日本の株価の下落は激しく、それは日銀の量的緩和解除の影響であり、日本の実質金利が諸外国にくらべて急激に上昇したことで、世界の資金の流れに影響を及ぼし、株価下落につながった、というみたてです。つまりは日本発の世界同時株安説ですね(参照:http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20060619)。

そして福井総裁スキャンダルで政府に日銀は「大きな借り」をつくった、といういことです。「この意味では、日銀の独立性は事実上かなり失われている」としています。そしてこの傾向は安部政権になれば拍車がかかるだろうとし、「だが日本経済にとってはそのほうがかえって好都合かもしれないと思えることこそが、今の日銀の体たらくを表している」と手厳しいです。

 私は暗黒大陸さんやまた本日のドラめもんさん(そして中銀のスキャンダルモデルの含意)と同じく、むしろ日銀は従来からの「独立性」バネを最大限にいかして! ゼロ金利解除を早期実行するのではないか、と思っていますが、そのほかの認識ではまったく同じです。

「日銀ウォッチ」の「「中銀魂」で世界と足並み?」白馬さん匿名記事もまた管財人さんと同じ趣旨ですが、「中銀魂」というのは、現在のFRB、ECBの原油価格高騰によるインフレ期待をおさえるための利上げというスタンスを、日銀が「自分舘だけがマネーの蛇口を十分に閉めずに、欧米のアクションを傍観することは「中央銀行」が許さないのではないか」と指摘しています(ゴチックは田中強調)。

中央銀行魂以前に、魂抜かれた日銀のありさまはryu

 世界の中銀スキャンダル研究サイト

たまたま発見。

http://www.ex.ac.uk/~RDavies/arian/scandals/centralbanks.html

今回の日本のケースにかなり近いのはやはり前イタリア中銀総裁ファツィオ氏ですね。以下のHEAT1836さんのブログを参照。

http://plaza.rakuten.co.jp/HEAT666/diary/200512200000
<ファツィオ氏は1993年にイタリア銀行総裁に就任。イタリアの銀行バンカ・アントンベネタの買収合戦で、オランダの銀行ABNアムロより伊銀バンカ・ポポラーレ・イタリアーナに肩入れしたという疑惑をめぐり、7月に警察が同氏の会話を盗聴して以降も、総裁の座にとどまりつづけてきた。>

 日本とはもちろん警察の捜査のあり方や司法制度も違うでしょうから同じくくりは禁物なんでしょうが、それでも彼の辞任はやはりマスコミの「疑惑」から政治的騒動に発展しての辞任ですね。警察の盗聴などは日本と異なりますが、実際には特定の企業買収をめぐる話で、特定の買収側への「肩入れ」というのも似ている印象。どんな「肩入れ」なのかはよくわからない、ところも似ている。ちょっとこれからも調べてみたいと思いますが、上のサイトによりますと、警察が盗聴したテープで親しげな会話をしていた(これはテープがあるので確実)と宝石の贈答をうけていた「疑惑」だけですね。それで信頼性を喪失して政治騒動にまきこまれて辞任です。その後、中銀総裁の指名についての法改正もありました。

 日本はこのままですとワイドショーが力を発揮すれば別ですがw 政治的には辞任させないかわりに、景気の日銀への責任と日銀法改正の材料を政府がゲットしたという展開なんでしょうかね? 

(追記)
この報道によると盗聴テープの存在が大きいですね。しかしこの会話だけではまさに「疑念」なわけだ……。ただ認可権があるからこれはインサイダーってよりもなんだろ、裁量権の乱用か??

http://www.nikkei.co.jp/news/past/honbun.cfm?i=AT2M3000A+01082005&g=MH&d=20050801

ちなみに中銀の信頼性を道義的な問題にしてしまうとわけわからないので、上の中銀スキャンダルサイトの冒頭の研究論文をみると、スキャンダルによる中銀の信頼性の損失が、中銀の最適な政策を損なうことが論証されてるようなので(まだそれほどしっかり読んでない)検討に値するでしょう。

 文化的相対主義による専門知批判の日本的淵源


 以前、hicksianさんのところで話題になった文化的相対主義について最近ちょっと文章を書いたので、そこからの抜粋。全体は野口旭さんたちとの論文集に収録予定。


「 笠と三木との邂逅は、笠のデビュー作『シュペングラーの歴史主義的立場』(1928)に『帝国大学新聞』に三木が書評を寄せたことに始まる。笠のこの処女作は、当時ブームとなっていたオスヴァルト・シュペングラーの著作『西洋の没落』で展開されていた文化的相対主義マルクス主義の立場から批判する内容のものであった。笠が処女作の中で簡潔にまとめたように、シュペングラーは経済制度を各文化圏固有の性格によって規定されるものとみなした。

 「資本主義は、之を止めて考えると英国であり、英国社会であるが、その動く相にては、いまや世界を暴威を振るいつつ進み行く「貨幣独裁の時代」である、経済時代である。同様に、社会主義は、これを静止せひめて見れば独逸であり、独逸国家でありる。これを動においてみれば、ケーザリズム時代へ進み行く道程の時代であり、経済時代から政治時代への推移である」(笠(1928/1969)163頁)。
 笠の著作はシュペングラーの文化的相対主義の特徴を描き出すことに成功はしているものの、笠自身がシュペングラーをいかに乗り越えていくかはやや曖昧であった。ただシュペングラーのマルクス主義批判が的を得ていないことを指摘するにとどめている。この笠のマルクス主義からのシュペングラー批判をより簡潔に整理したのが、三木の書評である。まず三木はシュペングラーの主張を日本の現状によりひきつけて以下のように書いている。

 「シュペングラーの歴史的考察の中心をなす相対主義的、懐疑主義的思想の流行は、彼らの生活に希望をかけることの出来ぬ、彼等の生活の指導精神を失ってしまったインテリゲンチャの無気力と頽廃との状態を説明する。
 今やわが国のインテリゲンチャも同じ状態におかれている。甚だしい失業、賃金の低下、等等の現象は彼等から生活に対する充満した希望を奪い去る。そこから来る生活の頽廃は、彼等の特権に属していたところの彼等の理論的意識を鈍らせる。彼等は自己の没落を凝視する勇気なくことさらにこれを回避するために理論に遁れようとする―シュペングラーも理論を排斥した―指導精神の欠乏こそ今のわが国における大多数のインテリゲンチャの状態ではなかろうか。相対主義懐疑主義、この自己の姿を見るためにシュペングラーを読むことは無駄ではないだろう」。

 三木は、シュペングラーと同様に文化的相対主義に理解を示し、他方でインテリゲンチャ(知識人)が指導精神に欠け、実践を喪失した理論の巣穴に入り込んでいる、と批判している。この三木のシュペングラー解釈はあとでみるように、今日の代表的な日本的制度派経済学者にも採用されている。三木は、シュペングラーの文化的相対主義を批判的に乗り越えるために、笠と同様にマルクス主義の成果を取り込むことを強調する。

 「インテリゲンチャプロレタリアートと結びつき、そのために働くことによって希望を恢復することが出来る。
 シュペングラーはプロレタリアートのうちに人類歴史の未来を望むことを得なかったが故に、歴史的相対主義に陥らざるを得なかった。歴史的相対主義の克服はマルクス主義によってなされているのである。マルクス主義はまことにシュペングラー批判の意義を有するのである。
 かくて我々は笠信太郎氏においてシュペングラーのよき叙述者を見出した」。

 従来の知識人への不満(文化的相対主義への零落)を笠と三木は共有し、それをこの書評の段階ではともにマルクス主義的な知識人のあり方にその打開の途を求めている。この三木と笠の知識人論での
共通性は、昭和研究会での活動を通して、日本の「再編成」を「全人的テクノクラート」という知識人類型で行うべき、という主張にいたる」